2018年07月02日つばき谷の小道
あおぞら教室
現在、子どもの貧困は社会の重要課題の一つとなっている。貧困により子どもが望ましい教育的環境から排除されていくところに大きな問題がある。そのため、貧困の連鎖を断ち切るという目的をもって、学力保障と就学継続支援を目的として学習支援が実施されている。
学習支援は、経済的に困窮する子どもへの教育支援の側面と、子ども・若者の居場所をつくり、健全育成のための包括的な環境を整える側面の両面がある。これは直接的には子どもを対象としながら、子どもの保護者に対する支援でもある。
佛教大学の三沢徳枝氏は、学習支援者へのアンケートを試みた(子どもの貧困に対する学習支援のあり方の検討:青少年教育研究センター紀要第6号)。研究の結果から、支援者が保護者に子どもの良いところを伝えるようにかかわることで、保護者は子どもとの向き合い方が変わることが分かった。保護者に子どもの良いところを伝えるのは、支援者から見た子どもの個人間の差を保護者に伝える支援である。一人ひとりの保護者は子どもの良いところに気付いて、子どもとのかかわりを修正する、保護者の個人内の変化がある。つまり、支援者は、子どもと保護者の相互作用の側面から、保護者が子どもに対する見方をよいものに変えていくことで、子どもが自分を肯定的にとらえられるようなっていることが分かった。大人が変われば、子どもも変わるのである。
島根大学を卒業して、病気して、行き場がなくて困っていたとき、指導教官から大学の専攻科に入ってみないかと誘われ受験した。運よくパスさせていただき在籍したが授業には出ず、教授の講演会に付き添い、カバン持ちのようなことをして過ごした。そうしたゆったりとした時間の中で、後輩たちと一緒に「あおぞら教室」を始めた。翌年、隠岐の島の障がい児施設に就職するまでの一年間限りの教育・福祉実践だった。
卒論ではほかの同級生と一緒に松江市内の不就学障がい児の実態調査をやった。この調査はすでに福井大学で行われていたので、全国では2番目の調査だった。たくさんの障がい児たちが重い障がいゆえに就学機会を奪われ、一日家の中で悶々と生活していた。なかには、重度の身体障がいのために寝たきりの状態で、小さな部屋の天井ばかしをみつめて過ごしている子どももいた。社会から孤立している子どもたちを青空のもとで思いっきり遊ばせてあげよう。学生たちの熱い思いが実り、月1回の「あおぞら教室」が始まったのが昭和45年(1970年)の春であった。松江駅南口のナザレン保育園をお借りして、子どもたちは学生が保育し、親たちは悩みを話し合う、慰め合うそうした試みが始まった。
地域から孤立していた子どもやその親たちは、少しずつ変化を始めた。子どもをタクシーに乗せ、祖父母の反対を押し切って「あおぞら教室」に参加する親子の姿も見られた。
一年後、私は就職して松江を離れたが、大学の後輩たちが「あおぞら教室」を続けてくれ、月に1度の会が2度に増え、そして松江市立「ふじのみ園」という常設の障がい児保育事業に進展した。いまでは児童デイサービスセンターとして就学前の重い障がい児たちの保育や交流の場となっている。
専攻科在学の一年間は、病気を抱え、将来への不安に押しつぶされそうになる日々だった。大学紛争の際に受けた心の傷は、体にも影響を与え、内定を受けていた就職先を断念せざるを得ないところに追い込まれていた。どちらかと言えば、下を向いた生活を送っていた。一人前の社会人として飛び立つことができなかったのである。その私が、重症の障がい児たちに「青空のもとで思いっきり遊ばせてあげたい」と願ったのは、今思い起こせばそれなりの訳がそこにあったのだろうと思う。子どもたちに支えられて、励まされて社会人としての一歩を踏み出すことができたのである。
「あおぞら教室」の始まった日、あの子たちと私は一緒に青空を眺めた。子どもたちと一緒に、空に向かって万歳と大きな声を張り上げていた。
(髙橋憲二)